英雄たちすべてに才を認められた蒲生氏郷

織田信長豊臣秀吉徳川家康千利休といった英雄たちすべてにその才能を認められ、また前田利家高山右近黒田官兵衛細川忠興といった豊臣政権の有力武将たちからの信頼も絶大で、さらにあの異端児伊達政宗が最も恐れた男が蒲生氏郷1556〜1595会津92万石です。

40歳で病死豊臣秀次切腹の年してしまったため、結局は歴史に大きな影響を与えるようなことはなかった氏郷でしたが、彼にまつわる様な逸話エピソードを見ていくと、うなずけることが多いのも事実のようです。そこで今日は、その中から私がこれはというものをピックアップして紹介させていただきたいと思います。

利休が秘蔵の茶碗を氏郷の贈呈

千利休が愛した茶碗の中でも長次郎という名人陶芸家がつくったものはとくに有名ですが、その中に早船はやふねと命名されたものがありました。利休が船で急いで運ばせてでも、取り寄せて茶会に置きたいといういう意味で命名した名器です。これを知った古田織部細川忠興といった有力な弟子たちは早速利休に早船の所望を願いましたが、利休は丁重にこれを断ってその理由をこう告げたそうです。

早船という茶器の名に最もふさわしい御方は、蒲生氏郷様ですと。それを聞いた織部と忠興は、氏郷であれば仕方がないという表情をして大いに納得したそうです。

秀吉と家康が氏郷を同時評価

小田原征伐による全国統一の見通しがつき、伊達政宗から東北の要衝である会津の地を没収した秀吉は、この大切な会津をどの大名に任せるかについて家康に相談します。この時秀吉は、あらかじめ候補の名を札に書いて持参するよう家康に命じていました。

秀吉はまず自分が書いた候補が書かれた札を家康に披露します。第一候補が堀秀政で、第二候補が氏郷でした。この時秀政は38歳、氏郷は35歳。この時期の豊臣政権において二人は最も脂が乗りきった才覚人の有力大名であり、石田三成加藤清正あたりは両人に比べればまだまだ下っ端の小僧に過ぎませんでした。特に秀政は、秀吉が信長の重臣時代から信長周辺の情報を自身に運んでくれていた信頼できる男でしたので、それで彼を一番に推したのだと思います。

次に家康が札を披露しました。第一候補が氏郷で、第二候補が秀政でした。順序こそ違え二人の想いが一致していたことに秀吉は多いに喜びましたが、やはり家康が氏郷を最も評価していた理由が気になり問いただします。

家康は屈強な奥州人を相手に秀政ごとき強すぎる者を置けば、ことわざの茶碗と茶碗の出合いのごとくいずれ片方が砕けることは避けられません。その点で氏郷は武略のみならず、文学和歌茶道を心得た風流人でもあり性質も温和ですから、屈強な奥州人を治めるに最もふさわしいと思われますと返答しました。この的確な家康な人物評価に、さすがの秀吉も納得せざるを得なかったそうです。

一瞬で氏郷を娘婿にすることに決めた信長

信長と言えば人物評価を表面的なレッテルなどで判断せず、鋭い感性で人の奥に潜む長所や才能を見抜いた天才です。足軽あがりの秀吉諸国を放浪していた明智光秀素性定かならぬ滝川一益などが大抜擢したその代表例です。そんな信長が出会ってすぐに大のお気に入りになってしまった若者が氏郷だったのです。当時氏郷は人質として織田家に連れてこられたに過ぎませんでしたが、信長はすぐに彼を自身の側近として重用し、なんと娘冬姫の婿としてしまったのです。さすが信長ならではのスピード感と言えますが、そうさせた氏郷の才気も

やはり突出していたと見るべきでしょうね。

これだけ多くの偉人たちから最大級の評価をされたわけですから、氏郷は間違いなく才人だったのでしょうが、肝心の力を発揮するべき時関原の戦い等の前に死んでしまったため、具体的な評価が困難であることもまた確かです。

利休が認めたということは、純粋に人間として徳が高かったことが想像できます

家康が認めたということは、政治家為政者としての資質にも優れていたでしょう

秀吉が認めたということは人間関係の機微に通じ、人心掌握術も保持していたのでしょう

信長が認めたということは、理屈抜きの凄い魅力をもった人物だったのでしょう。

ただ歴史を動かす人物とは、才能にプラスすること運に恵まれていることがやはり必須ということですね。彼の死後には、家康は氏郷の息子を徹底して保護優遇していますし、三成も蒲生家の家来たちの面倒をよく見ていますから、誰からも期待されていた好人物だったのでしょう。